4つの時代
 古代ギリシアの優れた詩人の一人であるヘシオドスは、著書『仕事と日』の中で、かつて四つの時代が神々の憤怒によって破壊され、その後、新しい世代の人々が来て“鉄の時代”を受け継いだと語る。彼はまた別の作品(『神統記』)の中で、ゼウスとティターン族の宇宙的な戦いによって引き起こされた凄まじい天変地異について記している。生命の糧をもたらす大地は炎上してあたりにすさまじく響動み、涯しない森林はあたりに物凄い悲鳴をあげた。大地はすべて煮え立ち、大洋の流れや不毛の海も沸きかえった。

 熱い蒸気が地の上のティタンどもをおし包み、名伏し難い火炎は輝く上天へと立ち昇った。ちょうど大地と広い天が上空で衝突したかのようであった。というのも、それほどの激しい物音が起こりもするだろうから。もし、大地が投げ倒され、天が上空から(大地の上に)落ち被さるなら。ギリシア神話に限らず、一定の周期をおいて古い“年代”が滅び、新しい“年代”が始まるという思想は、全世界にわたる多くの民族の宗教や哲学、あるいは神話伝承の中に存在した。

 スペインの著作家ゴマラはメキシコ征服に関する彼の叙述の中で、古代マヤ人の間で伝えられた“時代を区切る五つの太陽”の伝承について書き記している。それによれば、マヤ人は現在地上を照らす太陽以前に、四つの太陽(水の太陽、地震の太陽、嵐の太陽、火の太陽)が存在し、それが各世界年代の終わりに次々に消滅し去ったと信じていた。これら四つの太陽は四つの時代を表し、その各々の中で古い種族は、洪水により、地震により、破滅的な暴風雨により、雨と降る大火により大地から滅び去ったという。

 ヒンズー教の宇宙論もまた、四つの世界年代(ユガ)と繰り返し行なわれる破壊について語っている。その教え(『バガヴァタ・プラーナ』など)によれば、クリタ(黄金期)を始めとして、トレータ、ドヴァーパラ、カリの四期が生起・帰滅を繰り返し、その度に世界は大火や、大洪水、大嵐らの天災に遭って滅亡した。現在はカリ期にあたり、時代の降下につれて人間の身体的・倫理的な衰徴が伴ったという。この部分は黄金時代から鉄の時代へと段階的に堕落したことを語るギリシャ神話の世界観とも一致している。

 マヤ人は彼らの世界年代を、次々に降臨する太陽の名によって数えていたが、実際、全世界にわたる多くの民族の宇宙論の中では、“年代”という言葉を“太陽”という言葉に置き換えている。独自の宇宙論を作り上げ、世界にセンセーションを巻き起こした奇才の作家イマヌエル・ヴェリコフスキーは、多くの文献を調査したすえこの事実に気付き、次のような考えを持った。四つの時代を区切る単位として“太陽”という言葉を用いた理由は、各世界年代においてこの偉大な発光体がその通り道を変化させたからではないのか?

太陽の四運動

 ヘロドトスの大著『歴史』の第二巻には、多くの学者が頭を抱えた不可解な記述がある。西暦前5世紀後半の、いつの頃にか、彼がエジプトを訪問した際に、エジプトの司祭と交わした会話記録がそれだ。この司祭は、エジプトが王国になって以来「この間に四回(と彼は言う)太陽は彼の習慣に反して上った。二回は現在彼の沈むところから上り、二回は現在彼の上る所から上った」と断言した。似たような記録として、後1世紀における古代ローマの学者ポンポニウス・メラが残した記述が挙げられる。

 エジプト人は、世界中で最も古い民族であることを誇りにしている。彼らの確実な年代記には……彼らが存在し始めて以来、星の動く方向は四度変り、太陽は現在上って来る方向に二度も沈んだと読める。メラの記述によれば、太陽のみならず星の運動方向も逆転したことになる。はたしてそんなことがあり得るのか?太陽を含めた星辰が東から上って西へ沈むように見えるのは、あくまでも見かけの運動で、実際には地球自体が西から東へと自転しているため、そのように見えるだけである。

 だからもし、地球の自転方向が逆転すれば、太陽は西から上り東に沈むことになる。しかし、それはあまりにも突飛な話である。地球の自転方向が急激に変化することは絶対にあり得ない。あり得るとすれば、地軸が倒れ、地球の北と南が逆転したときだけである。しかし、自転方向が逆転しただけでは、我々の目から見て星辰の運動方向に変化が起こることはない。いつも通り、それまで東と呼んできた方角から太陽は姿を現わすだろう。なぜか?考えてみれば当たり前のことである。

 地球が逆立ちしただけなら、確かに太陽の運動方向に変化が起こったように見えるだろう。日本列島を例にとれば、北海道が南端になり九州が北端になる。地理的には太平洋側が西になり、日本海側が東になる。しかし、地球の自転方向も変化する――すなわち星辰の運動方向自体が逆になるわけだから、逆の二乗で相殺し合い、地球上から見て太陽の運動方向に変化は起きないことになる。では、どうすれば太陽は西から上り、東に沈むのか?それには、南北あるいは東西だけが逆転する必要がある。

 東西の逆転とは自転方向の逆転を意味するため、先述したようにあり得ない。あり得るのは南北だけが逆転した場合である。ただし地軸移動ではない。地軸、すなわち自転軸がそのままで地球本体が引っ繰り返る必要がある。これがもう一つの南北逆転方法――ポールシフト(極移動)だ!ポールシフトの原理は逆立ちゴマと同じであると考えてよい。逆立ちゴマは回転しているうちにクルリと上下が入れ替わるが、自転の方向は不変である。すなわち、ヘロドトスやメラが語るように、かつて太陽の運動方向に変化が起こったとするなら、必然的にそれはポールシフトを意味することになる。

古代伝承

 ここで、古代において太陽や星々がその通り道を変化させたことを示唆する興味深い伝承のいくつかを紹介しよう。古代ギリシアの偉大な哲学者プラトンは『政治家』と題する彼の対話篇の中で、次のような記述を残している。私は太陽およびその他の天体の出没方向の変化を指しているのだ。いかにこれらの天体が、その時代において、現在昇る方向に沈み、沈む方向から昇っていたか……神は争いの折に、これは、あなたも思い出すはずだが、アトレウスに味方する証拠として、現大系の全部を変えてしまったのだ。

 アトレウスの伝承に関しては、すでに『前688年の奇蹟』で紹介しているので、そちらを参照願いたい。プラトンは続けて以下のように語る。ある時代には、宇宙は現在通りの回り方をする。次の時代には、逆の向きにまわる……天に起こったすべての変化の中で、この逆転が最も大きく且つ完全だ。東に沈む太陽に関しては、多くの古代伝承が、かつてあったであろうその事実を裏付けている。後3世紀のラテン学者カイウス・ユリウス・ソリヌスはエジプトの南境に住む人々について次のような言及をしている。

 この国の住民は、太陽が昔上った所に今は沈む、と祖先から伝えられた。また、エジプト古文書の一つ『パピルス・ハリス』には、はるか昔、火と水との宇宙災変が起こったとあり、その時「南は北になり、地球は引っ繰り返った」という。同じく、『パピルス・アナスタシ』として知られる古文書には「冬が夏の代りに来た。暦月は逆になり、時の順序は狂った」と記してある。同様な記録は古代中国にも存在し、伝説の皇帝である堯(ヤオ)帝の治世に、「太陽はまる十日間も沈まず、全土は洪水に蔽われた。」とある。

 興味深いのは、洪水後、直ちに4方位と日月運動を新たに調べ、獣帯十二宮を描写し、暦を編纂して、中国の民衆に四季の移り変わりを教えたとあることだ。これはポールシフトによって、星辰の軌道と暦月の関係に狂いが生じたことを示唆している。このように太陽の逆行と四季の逆転に関する伝承は世界中に散らばっている。一方で、多くの神話伝説における四つの世界年代や、ヘロドトスやメラの語る太陽運動の四回の逆転を考慮すると、歴史時代において地球は少なくとも四度のポールシフトを経験していなければならないことになる。

黄金の時代

 では具体的に、いついかなる時代に地球の南北は倒置したのか、そのことを考えてみなければならない。ここでは、ヘブライ人の残した歴史的記録と独自の世界観が非常に有用となる。彼らは太陽が西から上る世界に対して“テヴェル”という名を与えていた。タルムードのサンヘドリン篇には、洪水の七日前に聖なる者は太古からの状態を変え、太陽は西から上り東に沈んだ、とある。洪水とは“ノアの大洪水”のことだが、聖書学的な逆算では前2344年のこととされている。

 もっとも、聖書学の逆算も当てにならない面があるので、ノア大洪水は4大文明が開花した約4500年前の出来事であると考えてよい。中国側の古記録に出てくる伝説の皇帝堯も、神話時代と歴史時代を架橋する最初の皇帝であることを考えると、彼が治水した大洪水と旧約聖書のノアの大洪水が同一のものである可能性がある。だとすれば太陽が十日間沈まなかったという中国側の古伝承(誇張された感があるが)とタルムードの伝承もうまく調和する。

 ここで、ヘロドトスが神官から聞いた太陽の4運動は“エジプトの歴史が始まって以来”、すなわち有史以降であるから――少なくともノアの大洪水以後の出来事ということになる。ギリシア神話が語る“黄金の時代”がノアの大洪水以前であるならば、4つの時代を区切るポールシフトがあと3回起こっていなければならない。太陽の運行を例に取れば、西から東へ(第1運動)→ポールシフト→東から西へ(第2運動)→ポールシフト→西から東へ(第3運動)→ポールシフト→東から西へ(第4運動)、という具合になる。

 それぞれの期間はまた、ギリシア神話における白銀の時代、青銅の時代、英雄の時代、鉄の時代に相当する。ちなみにインド神話では、終末になるとヴィシュヌ神が白馬カルキの姿を取って降臨し、堕落した時代であるカリ・ユガを滅ぼして黄金の時代であるクリタ・ユガを再開するとあり、四つの時代の永遠の循環を説いている。さて、最初のポールシフトが約4500年前のノアの時代に起きたことはすでに述べたが、続く四つのポールシフトがいついかなる時代に特定できるのかを考えてみなければならない。

モーセからヨシャアヘ

 そのことに関して古代ヘブライの文献の中には鍵となる記述がある。『タルムード』及び『ミドラシュ』らのラビの古文書によれば、イスラエル人がエジプトを出国した日、太陽の運動に一大変動が起こったという。ミドラシュの中には、エジプト出国とモーセ立法の日の数週間の間に、太陽は幾度も軌道を踏み外せられたとあり、正典である旧約聖書の中にもエジプト出国の日の直前、太陽の輝きが失われる長い暗闇の災いがあったことが記されている。

 このことは、モーセの十災と呼ばれる天変地異に極移動が関わっていたことを示唆している。ポールシフトが起こった年代も当時エジプトを治めていた国王――ラムセス二世の治世期間(1290〜1225年)に特定できる。はたして、この時のポールシフトは太陽を逆行せしめるものだったのか、それとも正規の軌道に戻す類のものだったのか?ギリシャの伝承によれば、最高神ゼウスがティフォンと闘うために急いでいた途上、エウロパ姫に目を留め彼女を誘拐。そのまま西の国に連れ去ってしまったという。

 エウロパとは“夕の国”の意味で太陽の沈む場所を指している。現在、太陽が東から昇り西に沈むようになったのは、エウロパ姫(夕の国)が西の方角に連れ去られてしまったからなのだ。『教会史』を書いたことで知られる神学者エウセビオスは、ゼウス・エウロパ物語を、モーセ及びデウカリオン洪水(彼はかの洪水が出エジプトと同時代に起きたと考えていた)の時だとした。同じく神学者アウグスティヌスは、この事件が起こったのは“イスラエル人のエジプト出国とヨシュアの死との間”であるとした。

 ここで次のような結論を導き出すことができる。すなわち、ヨシュアの死亡までの間にポールシフトが一度でも起こっていれば、出エジプト時のポールシフトは太陽を逆行させる類のものであった、そしてもし起こっていなければ答えはその逆であったということだ。では、ヨシュアの時代にポールシフトは起こっていたのか?旧約聖書の中にはそれを裏付ける記述がある。ヨシュアがイスラエルの民を引き連れてパレスチナを征服した際、先住民アモリ人との間で大きな戦争が勃発した。

 戦い半ばにして日が暮れようとしていた時、預言者ヨシュアは神に加勢を求める。神への祈りが通じたのか、敵は戦意を失い、イスラエル人は次々と敵を撃破。アモリ人は敗走。イスラエル人は敵を殲滅せよとの神の命を遵守するためどこまでも追撃した。ベト・ホロンの下り坂にさしかかった時である。突如天空から大量の雹と大石が降ってきた。大石は次々とアモリ人を打ち殺し、不意に襲った天変地異に大混乱となる(ヨシュ10:11)。地上が石ころで埋め尽くされるなか、太陽の運行に異変が起こった。

 ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った。「日よ、とどまれ、ギブオンの上に。月よ、とどまれ、アヤロンの谷に。」日は、とどまり。月は、動きを止めた。民が、敵を打ち破るまで。『ヤシャルの書』にこう記されているように、日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかった。(ヨシュ10:12−13)ヨシュア記の編者が失われた聖典を引用し、記すところによれば、その日は太陽が沈まない非常に長い一日であった。

 ミドラシュの伝承によれば、このとき太陽と月とが18時間動かず、一日が約30時間あったという。ポールシフトが起これば、地域にもよるが、このような太陽運行の異常が引き起こされる可能性は十分にある。コロンブスに続いてアメリカ大陸に上陸し、原住民の伝説を集めたスペインの学者サハグンは、遠い過去に起こった宇宙災変により、太陽は地平線をわずかに上ったところで動かなくなり、月もまた立ち止まったと述べている。では、なぜ地球はポールシフトを引き起こしてしまったのか?

 結論から言えば、このときのポールシフトは、出エジプトの際と同じく、かつて太陽系を縦横無尽に駆け巡った巨大彗星“金星”の超接近が原因であった(モーセの十災参照)。アモリ人を打った大石とは、かつてエジプト全土を打った雹(バラドの石)と同じもので、金星が身に纏っていた無数の宇宙塵のことを指している。実際、ハバクク書の中の次の記述は、明らかに太陽運行の停止に彗星が関わっていたことを示している。あなたの矢の光が飛び、槍のきらめく輝きが走るとき、日と月はその高殿にとどまる。

エリコの奇蹟

 あらためて旧約聖書を紐解いてみると、太陽の動きが停止する直前、いくつかの不可解な天変地異が起こっていたことが分かる。もっともそれらの天変地異は、旧約聖書の中では“奇蹟”と呼ばれ、称賛されている。それはこんな内容だ――イスラエル人たちはカナアン征服の第一歩として城塞都市エリコへと攻め込むため、ヨルダン川を渡ろうとしていた。“契約の箱”をかついだ祭司たちが民の先頭に立ち、ヨルダン川に達したときである。驚いたことに死海へ注ぐ川の水が流れをとめた。

 こうして全イスラエルは干上がった川床を渡り、ヨルダンの西側に足を踏み入れた。ヤハウェ神の支援に勇気付けられたイスラエル人たちは、勇んでエリコに進軍する。しかし行く手には堅く門を閉ざしたエリコの城砦が聳え立っていた。堅固な城壁をいかにして攻略するか、ヨシュアが頭を悩ましていると、神の言葉が彼に臨み知恵を授けた。その方法は“契約の箱”を担いだ祭司を民の先頭に立て、雄牛の角で作ったラッパを吹き鳴らしながら、7日間、全軍隊がエリコの城壁の周りを行進するというものだった。

 そして最後の7日目――民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。(ヨシュ6:20)聖書を架空の物語、素朴な民間説話と見る一般人にとって、エリコの奇蹟は面白い話ではあるけれども、実際に起こったと信じる人はいないであろう。しかし、エリコの奇蹟は科学的に見ても、決して荒唐無稽な作り話ではないことが近年の調査で分かり始めているのだ。たとえばヨルダンの流れが堰き止まったという奇蹟だが、堤防の一部が地震で崩れたとすれば不思議でもなんでもない。

 実際、同じような出来事が1267年12月8日に起こり、ヨルダン川は16時間せき止められた。1927年の地震の際には、アダム近辺で崩れた堤防が河中に落ち、その流れを21時間もせき止めた。そのとき人々は干上がった河床を踏んで、ヨシュアの奇蹟よろしく川を横切った。ただ、旧約聖書の中にはヨルダン川の奇蹟をモーセの紅海割れの奇蹟と対比している箇所もあるので、あるいはその時と同じ電磁的な原因による可能性も否定できない。紅海割れに関してはモーセの十災(後編)を参照願いたい。

 ポールシフトが発生する前段階として、巨大彗星の潮汐力によりエリコ近辺で大規模な地震が起きていたと考えることはきわめて自然である。旧約聖書には、イスラエルの軍隊はエリコに攻め込む前に、7日間、町の周囲を行進したとある。その間、堅固な城壁を疲弊させるに足る巨大地震が幾度も起こっていたはずだ。ヨシュアは時を待っていたのである。最後の七日目、イスラエル全軍の規則的な行進により引き起こされた大地の震動と、高く鳴り響いた鬨の声で、すでに当初の堅固さを喪失していたエリコの城壁はもろくも崩れ去った。

 ヨシュアの時代のポールシフトは、モーセの時代に逆行した太陽軌道、すなわち東に沈む太陽を再び正規の軌道に戻す類のものであった。モーセの十災からカナアン侵略までは40〜50年ほどしか経っていないので、逆行する太陽も、長い人類の歴史の上ではわずかな期間しか見られなかったことになる。その後、太陽が再び逆行することはなかった。前688年(時代的にヘシオドスやヘロドトスの記録以後)に火星の超接近によるポールシフトが発生したが、この時は30度ほど傾いただけで、地球の南北が完全に逆転することはなかった。

傲慢の象徴「バベルの塔」

 ノアの時代のポールシフトは太陽を逆行させる性質のものだった。モーセの時代のポールシフトも同様であった。だとすれば、ノアの時代(約4500年前)とモーセの時代(前1290?)の1200年ほどの間に太陽を西に沈めるポールシフトが起こっていなければならない。しかし旧約聖書をくまなく調べてみても、この期間、太陽の運行に異変が起こったことを示す具体的な記述はない。あるのは大規模な天変地異が起こったことを暗示する断片的な記事だけである。その一つが“バベルの塔の物語”だ。

 ノアの大洪水後、人々はノアの息子の中で最も優れていたセムを王に戴き、サレム(現在のエルサレム)に移住して王国を築いた。しかし、彼らの中にはセムの支配権を快く思わない者たちもいた。彼らの筆頭が、当初人々に勇士と呼ばれたが後に堕落し、人間を狩る荒々しい狩人となったニムロデ(ハムの孫にあたる)である。反乱者たちはセムに逆らい、ニムロデを王に戴いて、サレムからシンアルの地に移住した。王となったニムロデはますます傲慢になり、ついには天にある神の玉座に近づこうとする。

 さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう。当時、メソポタミア地域では「ジッグラト」と呼ばれる巨大な聖塔が多数建設されていた。バベルの塔は、まさしくそうしたジッグラトの先駆けであり、その高さは優に100メートルはあったと考えられる。タルムードらに伝わる古代ユダヤの伝承によれば、ニムロデはバベルの塔の先端に立ち、天にある神の玉座に向けて矢を放った。しかし、天に唾したニムロデは、戻ってきた矢に胸を貫かれ絶命したという。

 さらに神は人々の言語を混乱させ、塔の建設を中止して、人々を全地に散らした。さらに旧約聖書の記述では明確ではないが、偽典外典の伝承によれば、バベルの塔は神の息吹によりもろくも地上に打ち倒されたという。そこでただちに不死なるおかたは、風によって大きな力を加えられた。するとたちまち風が大きな塔を頭から投げ倒し、人々の間で争いを引き起こした。このゆえに人々はその町にバビロンという名をつけたのである。(シビュ3:101−103)主はその塔に向けて大風を送って、これを地面に転覆せしめられた。

 同じく、後1世紀の歴史家フラウィウス・ヨセフスは、著書『ユダヤ古代誌』の中で、天高く聳えるバベルの塔が神の送った大風によりもろくも崩壊したことを書き残している。バベルの塔を崩壊させたのは、かつてノアの大洪水を引き起こした暴強星、巨大彗星ヤハウェの再接近によって引き起こされた凄まじい暴風と気象変動、そして大地震だった。神の息吹は全地に吹き荒び、旧約聖書の言葉通り人々を“全地に散らした”。すなわち、最大の民族大移動を引き起こしたのだ。

 バベルの塔崩壊の時期に関しては、聖書の中に次のような記述がある。エベルには二人の息子が生まれた。ひとりの名は、その時代に土地が分けられた(パラグ)ので、ペレグといい、その兄弟はヨクタンといった。“土地が分かれた”とはポールシフトにともなう地殻変動により、プレート活動が活発化し、大地が大きく分断されたことを示している。同時にそれが国々の境目となり、人々は海を渡って次々と別大陸に移住していった。ペレグが生まれたのはノアの大洪水からほぼ100年後。西から上る太陽の時代も、わずか100年間だけだったことになる。

黄金の時代 (4500年以上前)アダムからノアへと至る時代。太陽は東から上り西へと没した。
白銀の時代 (約4500年前〜約4400年前)太陽の第1運動。ノアの大洪水の際のポールシフトで太陽は西から上り東に沈む。
青銅の時代 (約4400年前〜3290年前?)太陽の第2運動。バベルの塔を崩壊し、民族を大移動させたポールシフトにより、太陽は東から上り西に沈む。
英雄の時代 (3290年前?〜3240年前?)太陽の第3運動。モーセの十災を引き起こしたポールシフトにより、太陽は西から上り東に沈む。
鉄の時代 (3240年前〜現代)太陽の第4運動。ヨシュアの時代のポールシフトにより、太陽は正規の軌道を取り戻す。